紫禁城。
古来の歴史書『周礼』をもとに造られ、皇帝支配の象徴とされる場所である。紫禁城の午門をくぐり、1万坪を越える前庭と太和殿を目の前にすれば、時間を超越し、建物、宝物、木々の一つ一つにこれまでそこに住んだ様々な人の物語を感じることができる。
紫禁城の宝物の多くは、国民党が内戦中に大陸から数万キロの道のりを経て台湾に持ち込み、
現在台湾台北の「故宮博物館」に保管されているが、「故宮博物院」は建築の壮大さを伝えており、
紫禁城の偉大さを体感するには、むしろここの方が相応しいだろう。
ここは、中国を訪れるツーリストにとってメインとなるのはもちろんのこと、
地球上で、是非訪れておくべき場所のうちの一つに挙げることができるといっても過言ではない。
この地には、もともとは、国民党の時代に外朝を古物陳列所として、皇帝への献上物の他、瀋陽故宮(注1)や承徳行宮(注2)の宝物が展示されていた。その後、溥儀が内廷を退去させられると「故宮博物院」とされた(1947年)。
(注1)瀋陽故宮
瀋陽(奉天)は清朝の発祥の地であり、清の太祖(ヌチルハ)は最初ここに首都を定めた。その後北京へと都は遷ったが、その後も歴代の皇帝たちがことあるごとに瀋陽に逃れ、暫しの時を過ごした。そのため瀋陽には、故宮を始め清朝ゆかりの文物が多い。
(注2)承徳行宮
清朝皇帝のかつての離宮であった。「避暑山荘」として有名であり、康煕帝(4代)(1662-1772年)以降の歴代の清朝皇帝は毎年4月から9月までをここで過ごし、政務を行った。面積も560haと「颐和园」(「イ」は、巨にオオガイ)より大きい。
従来は「紫禁城」と呼ばれていた。「紫禁城」の「紫」とは、本来天の中央に位置する紫微垣に由来する。中国の天文学では、古来、北天(注3)を太微垣・紫微垣・天市垣に分けた。その中央にあったのが紫微垣である。天帝がいる宮殿を「紫禁」というのは、動くことのない天(紫微)の支配を指し、宮殿の門戸が一般市民には「禁」であったことから「禁断の皇宮」という意味から「紫禁城」と呼ぶのである。
(注3)北天
北極星を中心とした北の空、その中心に「紫微垣」とよばれる星の配列がある。これ
が「紫禁城」の「紫」にあたるといわれる。皇帝は、北天にある多くの星が北極星に
向いているように、北極星を自分、他の星を家臣に見立てた。
皇帝は、自分を北に位置させ、南を向いて威厳を示す。家臣や外国の使者は、南から
北へ向かって進み、皇帝のもとに近づく、そこで南へ南へと幾重にも巨大な門を重ね
たのは、皇帝の威厳を示すためである。このように北を中心とした配列は、論語から
引用したものである。
「政(まつりごと)を為すに徳を以ってすれば、例えば北辰(ほくしん)のその所に
いて、衆星の向かうが如し」」(政治を行うには、徳をもっておこなおう、そうすれ
ばあたかも北極星が自分位置を定め、多くの星がそちらに顔を向けるようになる)
「紫禁城」は、1406年に明の永楽帝の命により造営が開始され、全国から数10万人の労働者と数100万トンに及ぶ建築資材が集められ、完成までに15年の歳月を要した。以後、明、清代の皇帝24人がここを居城とし、ラストエンペラーで知られる溥儀や康熙帝など中国に名を残すさまざまな人物の歴史的な舞台になった。
北京の中心に位置し、東西735メートル、南北960メートル、敷地面積72万平方キロメートル、周囲を高さ10メートルの壁に囲まれ、幅52メートルの堀に巡られている。建造物700余、部屋数9万9000、所蔵品数100万点に上る故宮は、建物自体が重要な歴史的資料となっている。故宮は大きく「外朝」「内廷」に分けられ、「外朝」は主に公の行事を行う場で、太和殿、中和殿、保和殿の3殿からなり、「内廷」は乾清門以後の乾清宮、交泰殿、坤寧宮、東西6宮などの宮殿群からなり、皇帝が日常政務を取り仕切ったり、住居があった場所、皇后・貴妃の住居として利用した場所を"後宮"と呼んだ。ここに現存する門は、午門、東華門、西華門、神武門(北門)の全部で4ヶ所しかない。
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北京見物、中国見物のメインになる「故宮」。入口の午門から北の神武門まで、通り貫けるだけでも1時間は必要。以下のポイントを全て回ろうとすれば、最低でも3時間は欲しい。丁寧に見て回る場合は、半日(4~5時間)、資料片手に回った場合は1日と各個人の見学の仕方によっていくらでもアレンジが可能な奥が深い観光名所である。
〔3時間コース〕
1.午門・金水橋 → 2.太和門 → 3.太和殿 → 4.中和殿 → 5.保和殿 → 6.大石雕 → 7.乾清門 → 8.乾清殿 → 9.交泰殿 → 10.坤寧宮 → 11.欽安殿→12.堆秀山 → 13.儲秀宮※ → 14.長西街※ → 15.養心殿※ → 16.奉先殿※ → 17.九龍壁 → 18.皇極殿、寧寿殿(珍宝館) → 19.神武門 → 20.景山公園
〔2時間コース〕
3時間コースのうち※印を省略 |
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午門 |
gugong01.jpgb 故宮の正面門で、子午の方向にあることから子門と呼ばれている。1420年の創建。入口は全部で3つあるが、中央の門は皇帝限定で、皇帝が出入りする時以外は閉められていた。左右は貴族や役人の通路になっている。また午門の前は広場になっており、明代には「てい杖」という「棒打ちの刑」が施行された。時には死人も出たという。門の上には鐘と太鼓が用意され、天壇、地壇、もしくは大廟の祭祀のために皇帝が通るときに鳴らされた。映画「ラストエンペラー」で自転車に乗っている溥儀が止められたのもこの門である。
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金水橋 |
gugong012.jpgb 午門をぬけると「金水橋」にでる。敷石が引き詰められた5本の橋は、中央が皇帝であり、それ以外は貴族や武官達が使用していた。
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太和門 |
gugong02.jpgb 1420年創建で、当初奉天門と呼ばれた。その後3度の火災に遭い、1883年に再建されたのが現在の「太和門」で中国最大の宮殿建築の木造門である。
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太和殿 |
gugong03.jpgb 紫禁城の中心、太和殿。4書のひとつ『周易』の最初の「乾」の項に「太和を保合する」とある。つまり「天皇たるもの天の調和をよく保つならば、天下は自ずと平らかになる」との意から「太和殿」と命名されたと言われている。
太和殿の玉座(下写真#1)の天井を見上げてみよう(下写真#2)。そこには方形と円形を組み合わせた装飾天井が見える。「方」は「地」を表し、「円」は「天」を象徴している。つまりここが宇宙の中心であることを示している。そしてそこからはぬっと飛び出た一匹の龍が玉をくわえている。これは「軒轅鏡」といい、「軒」は中華民族の子孫・皇帝の別名で、「軒轅鏡」は黄帝(注)から伝わる皇帝の証である。皇帝であるというのはつまりこの玉座に座ることであった。
殿内は72本の楠の大支柱に支えられ、その内6本は金の漆塗りである。屋根の上には巨大な龍が置かれ、軒には10種類の動物と仙人と動物の形をした瓦が置かれている(上写真#3)。これは魔よけの目的であり、中国の殿建築にはよく見られるが、これまで種類があるのはここだけである。
宮殿は3層の壇上にあり、「丹陛」という最上壇が最も広く、そこに銅製の鶴亀の鼎や石造の日時計、度量衡が置かれていた。殿内に香炉を配し、式典の際には、音楽や香木が燃やされた。香煙が立ち込める中、号令と共に静寂と敬意の念に包まれた。
前庭だけで1万坪あり、国家的式典はここで行われた。その際、皇帝に対しは「三跪九叩」という拝礼の形式を取っていた。「跪」の号令で跪き、「一叩」の号令で手を地面につけ、額を地面に打ち付け、「二叩、三叩」とさらに2回打ちつける。起立する。これを3回繰り返す。式典の際に殿内、前庭などに整列した人間が一斉に「三跪九叩」をする風景は一体どんなものだったのだろう。
(注)「黄帝」とは、中国の歴史書「史記」に最初に名前が記された天子である。「黄帝」の”黄”は黄土高原の土の色であるとともに中央と言う意味でもある。黄帝は、天子として天から君臨しその威厳で世界を支配した。すなわち「黄帝」は世界の首領ということになる。
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中和殿 |
gugong04.jpgb 1420年創建。太和殿で行われる式典の前、皇帝はここで休憩し、内閣、礼部などの役人の朝拝を受けた後、太和殿に赴いた。天壇、地壇、先農壇などの祭祀の際にはこの場所で閲見した。
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保和殿 |
gugong05.jpgb 1420年に創建。減柱法がとられ、宝座前の6本の柱が取り除かれ広い空間になっている。明代、皇后の印璽(いんじ)を授与する「冊立」の儀式が太和殿で行われるとき、ここで礼服に着替え、太和殿に赴いた。また清代には、除夜と9月15日に蒙古や新疆の王との宴会を行った。当時、残り物は給仕の宦官(注1)たちが頂いてもいいという慣わしだったので、宴会が終わり、客人が外へ出るや否や宴会場では、皿のぶつかる音がしていた。また官史採用の試験「科挙」(注2)の最後の試験「殿史」もここで行われた。
(注1)宦官
宦官とは去勢された"男"である。当時は「閹人」(えんじん)とも呼んだ。昔から中国では犯罪者に対する刑罰として去勢があった。戦争などで捕らえた捕虜に去勢を行い宮中奴隷として使役したのが最初だと言われている。十歳くらいまでに去勢の手術を行ってしまえば、性腺がそれ以上発達せず勃起しないので、皇帝以外の男子を宮中に入れないという点では都合が良かった。しかし宮使いだった宦官も官史や女官と特別な関係を築き上げ、文字を習得するようになると、皇帝、皇后の寵愛を受け、いつしか政務に口出しするようになっていった。国営事業のための税金の水増し要求や横領、賄賂など権力を得た宦官は貪欲に私利を肥やしていった。唐の時代には玄宗が楊貴妃とともに宦官の高力士を寵愛し、国内が乱れ、宦官政治が皇帝7代にも渡って続いた。
(注2)科挙制度
6世紀、隋の時代に始まり清代末期の1905年まで、1300年間にわたり行われた官史資格試験制度。科挙に合格するには、物心つく前から四書五経を始め膨大な儒教文献を暗記し、童試→郷試→会試→殿試の4大難関に挑戦しなければならない。「童試」に合格すれば秀才で3年に一度行われる「郷試」の受験資格を得ることができ、「郷試」に合格し、挙人となれば終生官職につくことができた。さらに「郷試」には、「会試」の試験資格が与えられ、それに合格すると最後に皇帝が行う「殿試」の試験を受けることができた。「殿試」に合格すると「進士」となり高級官史になれた。
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大石雕 |
gugong06.jpgb 紫禁城最大の石造物。北京郊外の房山(50キロメートル)から運ばれたもの。当時は冬の道に打水をし、凍りついた道を2万人で約1ヶ月かけて運ばれてきたもの。皇帝はこの龍の上を輿に乗って通った。
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乾清門 |
gugong07.jpgb 内廷の正門。東西200メートル、南北50メートル、広場に面し、銅製の流金の甕(下写真左)や獅子(下写真右)、赤い壁が八の字のように開いているのが特徴である。門とは言っても宮殿の作りになっており、中庭を囲んで部屋が並ぶ。孔子を祀った部屋、置時計、香蝋燭は有名。清代には、ここで「御門聴政」(皇帝が家臣からの上奏(報告)を聞き、これを裁下すること)が行われていたため、お茶の準備室や書籍筆墨を置いた部屋には毎日4名の文学教養のある詞臣(翰林官)が乾清宮南回廊に皇帝の質問に答えられるよう待機していた。その他、上奏文を取次ぐ事務室や政務を処理する事務室、宦官を管理する事務室などがあった。康熙帝などはここでよく裁決を行った。
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乾清宮 |
gugong08.jpgb 
1420年創建。1798年に再建。皇帝の寝室兼執務室であり、皇后でない限り立ち入ることができなかった。清代には、皇帝が死ぬと棺をここにとどめて祭ったあと、景山の寿皇殿、または観徳殿におき、そこから陵墓に運んだとされている。部屋の中には「正大公明」の額があるが、雍正帝の時代には皇子の中から皇太子と定めたものの名を書き、箱におさめこの額の裏側に納めて置いたこともある。映画「ラストエンペラー」で溥儀が幼少時代に玉座の後ろにコウロギを隠した玉座がこれである。
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交泰殿 |
gugong09.jpgb 1420年創建。1798年再建。中和殿と同じ形式の建築だが中和殿より小さい。内部には宝座があり背後に4枚の屏風がある。屏風の上には、乾隆帝直筆といわれる「交泰殿銘」の屏風がある。清代には皇后にたてる「冊立」の儀式が執り行われ、元旦、冬至、千秋(皇后の誕生日)には、皇后はここで家臣の祝賀を受けた。殿内には、大きな水時計(銅壼滴漏)と置時計(大自鳴鐘)が置いてあり置時計の方は現在も使用可能である。
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坤寧宮 |
gugong10.jpgb 1420年に創建。1655年再建。明代には皇后の寝室として利用された。清代に入ると改築され、皇帝の結婚儀式の場所とした。結婚の儀式のあと、ここの東暖閣で3日間を過ごす。普段は宗教儀式の場所とした。宗教というのはもちろん清朝発祥の地、満州のシャーマニズムに則ったものである。
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欽安殿 |
gugong11.jpgb 明代初期の創建。計3体の玄天上帝像(水神)が祭られており、明、清の火災防止の祈祷はここで行われた。そのためか欽安殿は、故宮でも唯一明代当初の姿が残されている数少ない宮殿である。
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堆秀山 |
gugong12.jpgb 絶品と言われる太湖石を積み重ねて造られた。重陽の節句(注)の際、皇帝と皇后がここに登り、菊の花を浮かべた酒を飲むなどした。この山に登ると紫禁城内はもとより西の郊外にある西山をも眺めることができた。
(注)重陽の節句旧暦の9月9日(10月上旬)、めでたい数字「9」にちなんで9月9日に菊を盛りを祝い、菊を観賞したり、菊酒を飲んだりする。かつては「登高」といって山に登り菊酒や詩を詠んだりして長寿を祝った。皇帝も紫禁城内の堆秀山に「登高」した。
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儲秀宮 |
gugong13.jpgb 1420年創建。1655年改修。西太后が50歳のときに大改修を行い、自らの趣味で装飾した宮殿。今も当時の様子をそのままに残した宮殿で当時の生活が偲ばれる。
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長西街 |
gugong14.jpgb 朱色の壁か続き、ひっそりとした雰囲気が昔を偲ばせる。映画「ラストエンペラー」のワンシーン、はたまた女優の鞏俐(コンリー)が突然顔を出しそうな雰囲気の場所。後宮で当時の人々がどんな生活をしてきたのか?故宮で物思いに耽るならここが一番のオススメポイント。
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養心殿 |
gugong15.jpgb 西六宮の南にある宮殿。同治帝、光緒帝のとき西太后が「垂簾聴政」をおこなった。「垂簾聴政」とは、皇后や皇太后が皇帝の後ろにあって実権をふるうことで、殿の東「東暖閣」では、黄色の垂れ幕を下げ、幕の前の玉座に皇帝、幕の後ろに西太后が座り、巨下の上奏を聞いていた。
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奉先殿 |
gugong16.jpgb 1656年創建。清代はここで皇帝が祖先の霊の祭祀を行った。毎月1、15日、元旦、冬至、万寿節(皇帝生誕祭)などの行事は前殿で行われ、皇帝の忌節や元宵節、清明節、中秋節(注)などは後殿で行われた。狩で仕留めた獲物、毎月の野菜、果物などの実りはここで祖先の霊に捧げられた。
(注)元宵節
毎年、旧暦の1月15日(その年の初めての満月の夜)に行われる。電篭(ちょうちん)を掲げ、餡や胡麻、サンザシなどを餅で包んだピンポン球をひとまわり小さくしたような大きさの白玉団子をいただき、一家の無事を祈る行事。
清明節
旧暦の3月の節句(4月上旬)墓参りをし、祖先を供養する。最近ではこの時を利用して親戚や家族と郊外にレクリエーションを楽しむ(踏青)ことが多い。
中秋節
旧暦の8月15日(9月中下旬)、果物や野菜などの収穫物を供え、家族揃って団欒とお月見を楽しむ。この頃になると街に月餅が溢れる。
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九龍壁 |
gugong17.jpgb 宮内には全部で3箇所の九龍壁があるがその一つ。1771年に彩色瑠璃瓦で作られた。長さ29.4メートル、高さ3.5メートルと小型ではあるが色彩が素晴らしいとされ、中国3大九龍壁の一つになっている(その他は、北海公園、山西省大同にある)。
「九」は、最大の陽数であり、皇帝の尊さを表したものである。左から3匹目の龍の腹部に木片がはめ込まれている。これは作業中の職人の不注意でこの部分の瑠璃片を壊してしまったため、彫刻した木片に色を塗り代用し、今ではその色が剥げ落ちて現在のような形で残っている。
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神武門 |
gugong19.jpgb 紫禁城の北門。1420年創建。もともとの名を「玄武門」と言ったが、清代に改修工事が行われてから神武門と呼ばれるようになった。もともとこの神武門の上には鐘があり、皇帝が宮中にいる間を除き、日の入りになるとその鐘を鳴らし「時」を告げた。ただし皇帝が宮中にいる間は鳴らされることがなかった。宮中の宮使いである秀女を決めるときも女性をこの門から入城させた。
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故宮~概要 |
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日本語音声解説レシーバー:40元(プラスデポジットとして100元)。午門左側で借りることができる。神武門でも返却可能。カバンは持ち込むことができず、午門の右の預かり所で預けなくてはならない。なお、午門で預けたカバンを神武門で受け取ることもできる。
FEE:一般60元、学生30元 OPEN:夏季8:30~17:30 冬季8:30~16:30(但し入場は1時間前まで)
TEL:010-6513-2255 |
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